芳竹園
創業四百年余 高山茶筌と茶の湯道具卸
500年続く恩義と一子相伝
高山と茶筌と茶の湯

1. 鷹山氏と村田珠光
高山茶筌の起源には、室町時代の大和国に勢力を持った鷹山氏と、茶の湯の祖として知られる 村田珠光 の存在があります。伝承によれば、珠光は鷹山城主の次男であった鷹山民部丞入道宗砌に茶の湯の精神を説き、その際に茶を点てるための茶筌づくりを依頼したとされています。これが日本で初の茶筌とされています。宗砌は家臣の中から手先の器用な者を選び、茶筌の製作を命じました。これが高山茶筌の始まりと伝えられています。史実と伝承が織り交ざる部分もありますが、この物語は高山茶筌が単なる竹細工ではなく、茶の湯文化とともに育まれた工芸であることを今に伝えています。
2. 鷹山から高山へ
高山茶筌の産地である現在の奈良県生駒市高山町は、古くは「鷹山」と表記されていました。中世には鷹山氏の居城が置かれたことからその名で呼ばれていましたが、村田珠光によって後土御門天皇へ献上された際に茶筌を気に入った後土御門天皇より、「高穗」の銘を賜り、「高穗茶筌」と呼ばれるようになりました。高穗」にちなんで「鷹山」から「高山」に地名・家名を改めたと言われています。。現在も高山の名は茶筌の代名詞として知られ、日本の茶文化を支える重要な産地として受け継がれています。


高山城跡
3. 高山家没落と家臣団
戦国時代の天正5年(1577年)、筒井順慶の軍勢などに攻められ鷹山(高山)城は落城し、領主としての高山家は没落しました。天正13年(1585年)の転封に伴い高山家に仕えていた家臣たちの多くが帰農し、茶筌づくりを許可され、長年秘匿の技として一子相伝の「茶筅作り」を生活の糧(生業)として受け継いできました。これが現在の「高山茶筌(ちゃせん)」の起源であり、国内シェアの約9割を占める伝統産業となっています。
当家では、この1585年を創業年としております。
4. 無足人座
「無足人」とは江戸時代、無給の武士身分(郷士など)を指します。家臣団はその後、高山八幡宮で宮座の一つして集まり、当主がいないことから無足人座と呼ばれました。平座とことなり珍しい形態となっています。時代は進み、江戸時代に大仏殿の復興へ尽力された公慶上人は鷹山氏の出身で、無足人座は現在も鷹山家墓所の清掃、東大寺公慶上人忌への参列、聖武天皇祭への出仕独自の神事や行事を行っております。

無足人座は僧兵役として毎年聖武天皇祭に参列しています

5. 一子相伝
高山茶筌の製法は長い間「一子相伝」によって守られてきました。これは一家の中でも原則として一人の後継者のみに技術を伝える制度で、製法の秘密を守るための知恵でもありました。茶筌づくりには、竹の選定、乾燥、穂先の細かな割り 込み、編み込みなど数多くの工程があり、その技術は書物だけでは伝えきれません。職人は幼い頃から親の仕事を見て学び、長年の修練を重ねて技を身につけました。この厳格な伝承制度によって品質が保たれ、高山茶筌は全国の茶人から信頼を得る存在となりました。今日では技術継承の形は変化していますが、伝統を重んじる精神は今も受け継がれています。
6. 高山地域の茶道具
高山地域は茶筌の産地として有名ですが、茶筌だけでなく茶の湯に関わるさまざまな竹製茶道具も作られてきました。茶杓、柄杓の柄、蓋置、花入など、竹の特性を生かした道具づくりが地域の職人によって受け継がれています。竹は軽く丈夫で加工しやすく、それぞれの道具に適した素材として古くから用いられてきました。高山の職人たちは素材の個性を見極めながら、一つひとつ手作業で丁寧に仕上げています。茶筌づくりで培われた繊細な技術は他の茶道具にも生かされており、高山地域は日本の茶文化を支える竹工芸の里として現在も高い評価を受けています。
